「偶像崇拝」がやって来た2016-07-28


無意識のなか
様々の「偶像崇拝」を通り抜けて来たように思っています。

人生で目標を設定することは
決して悪いことではないのでしょうが、
しばしば、
それは、自分以外の誰かの都合のためだったり、
自分の本心以外の見栄や体裁からだったりすると思います。

ティーン時代の始まりは、
大学進学を目指す中高一貫教育の学校への入学で始まりました。

親や先生たちが口にする
「国立一期校」といいうのが
漠然とひとつの「偶像崇拝」であったかのように思い出します。

学校で
受験に成功した先輩たちとの交流会のようなものがあり、
半分ふざけたようなことを言う先輩でも、
たとえば、京都大学に現役で合格したような先輩の話であれば、
学校も生徒も真剣に耳を傾けますが、
たまたま滑り止めの私立大学に通っている先輩が、
そこで得た学問のおもしろさについて
熱心に語っても、あまり相手にされない、という感じした。

その学校は、
それくらい「入学試験合格」だけに特化していたり、
歪に集中している感じで、
先生たちも、志望校に合格する人のことを
「最後に笑う人」と呼びはばかりませんでした。

私は、そういうのを、
今では、やっぱり、一時的な「偶像崇拝」の傾向だと思っています。

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多くの人たちが、
無意識に結果的に「偶像崇拝」に依存してしまうのは、
やはり、人間独特のある種の不安的な気分からだと思います。
そして、言うまでもなく、
いわゆる「物質的に豊な時代」ほど、
人々がそうなる傾向は激しい。

今のところ、たとえば、普通の学校教育は、
目標設定や集中の美徳については教えますが、
とても広い意味での「偶像崇拝」については、
まだ教育や指導のレベルで体系化されているわけでもなんでもない。

でも、私たちが、漠然と「良心」とか「正義」とか「道徳」の
ようなものを意識するとき、
それが自己弁解の自己申告の<表現>のためではなく、
心の奥深い部分で純粋に意識されているとき、
やはり、人間には、偶像崇拝を避ける才能があるのだとも思います。

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ロマ書2016-07-27


What shall we then say to these things?
If God be for us, who can be against us?

(Rom 8:31, KJV)

色即是空であります。

敵は、外部に設定して、自らと対比させるような演出が、
一般的ではあるけれど、
もう一歩踏み込めば、
なにかしら、直接的な敵は、
常に自らのなかに存在するかのようです。
といいますか、
自らのなかでの存在を仮定しない限り、
問題解決の方法はありえないようにも思います。



外部に設定された敵の攻撃を試みても、
実際には、
空振りの連続のような気もします。

内部に仮定する敵も手強いが、
それでも、
こちらの方が戦う価値があるかのようにも思います。

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A Soldier Against His Own Laziness


※ HTML2016-06-15