#020 Friday2017-03-24

金曜日の
テスト入力。

長い間、いわゆるモバイルPCを使用していた。
愛好家といってもおかしくないくらいだったが、
最近さすがにタブレットの使用に傾いてきた。

たしかに、Windows 3.1 や Windows 95 の時期にあたる
ウィンドウズGUI の普及期においては、
基本的なGUI の表示だけでも、
最新/高性能が必要とされる時期があり、
そのころの記憶が残っていないわけではないが、
現在では、さすがに、
いわゆる
「WEB閲覧、メールの送受信、基本的なアプリケーション」こそが、
大多数の人々の大多数の用途になっているので、
「純PC」の類は、
下手をすれば、過重量+過性能で、
価格だけが無駄に高い商品ということになってしまいがちだ。


#015ー0162017-03-15


オンラインで気軽ににインプットできるのは、
ありがたい。

私の思う Mobile Computing は、
具体的に言えば、
ブラウザ越しに提供されるサービスに関わるようなことなのだが、
20年以上前に比べると、
これは、ずいぶんと安い値段で実現するようになった。

Mobile Computing というコンセプトは、
PC販売のための広告キーワードとして捻り出された
無数のコンセプト同様、
登場当初には、一般的な実用性があるわけでもなく、
それゆえに、さほど実態もなく、
あやふやなものであったが、
それでも、なんとか、そのコンセプトは、
たとえば、
「有能で多忙な人々が、外出先の移動の時間さえ惜しんで
知的で、創造的で、生産的な作業をこなす様子」を
演出することに成功した。

そして、そんな印象を付録にして販売が始まったのが、
いわゆるモバイルPCの数々だった。
もちろん、そのコンセプト通りの実態に当てはまる人は少数で、
モバイルPCの売上に比べると、
そんな購買者の数は皆無にも等しかった。

そのころ、購買者にとってモバイルPCの唯一の共通の利点とは、
ただ、電車等にのって移動する場合に、
持ち運びが比較的楽である、ということのみに限られていた。

実体的に Mobile Computing と読んでもおかしくない用途が
発生したのは、そのコンセプトが生まれて10年以上経過してから、
21世紀になってからのことだった。

それは、当初演出されていたような、
かっこええものというよりも、
むしろ、より多くの人たちがネット越しでやりとりしたり、
ショッピングをしたり天気予報を調べる、
というようなことが、
スマホ等の普及で、ごく日常的になったときのことをいうのだろうと思う。

そして、その普及に貢献した道具は、
従来のPCよりずっと値段が安く、
しかも、何よりも、小型で持ち運びが便利なものがほとんどだった。

性能等に関してお高くとまり、
しばしば、実利よりも、理屈やスペックの数値の方が一人歩きしがちだった
いわゆるウィンドウズPCではなく、
誰もがすでに便利に使用していたケータイ電話の実利側
から派生したスマホという道具が、別のOSを搭載して
爆発的に普及を始めたのだ。

前世紀以降、コンセプトのばらまきの影で、
いわば、価格帯と実利のバランスの測定を
免除されてきた従来のPCが、
いよいよ、その測定から逃れられなくなってしまったのだとも言える。

そして、人々のごく一般的な用途なんぞ、
従来のPCよりもずっと安い価格の道具で満たせることが
とうとう市場に広がり、
消費者一人残らずに知れ渡ってしまったということなのだろう。

当然、しばしばスマートメディアと呼ばれるような
新しい端末の売上は、
ウィンドウズで動く典型的な純PCの売上を超えてしまった。
一般的な用途において便利でより安いものが売れるという、
ごく当たり前の法則から、
従来のPCは、いよいよ逃れることができなくなってしまったのだ。







#0142017-03-15

テスト
テスト

テスト入力。
テスト/インプット




#0132017-03-15


andoroid を使用する場合は、
FireFox よりも Chrome の方が使いやすいかもしれない。
ハードウェアにもよると思うが、
そんな感じだ。


#012 Mobile Computing2017-03-15


"Mobile Computing" というコンセプトは、
前世紀PCの売手側によって作られた。
おおかたは、
「有能で、多忙な人たちが、
外出先で移動の時間も惜しんで、
創造的かつ生産的な作業を行うこと」
というような意味で、
そのための道具が、
"Mobile PC" ということになった。

思いつくのは、
たとえば新聞記者のような職業の人たちが、
現場から、そのまま編集室へ
デジタルのデータを転送するようなことがあったが、
一般的な実態としては、
上記で定義されるような ”Mobile Computing" に
関わるような人たちは、
それほどいなかった。
少なくとも、"Mobile PC" の販売台数よりは、
はるかに少なかった。
 
一般的で現実的な”Mobile Computing"は、
そのコンセプトの登場から、
約10年以上経過して、21世紀になってから、
登場しはじめたのだと思う。

つまりは、インターネットの転送速度の向上を土台にして、
より多くの人々が、外出先からスマホ等の端末で、
地図を観たり、天気予報を観るようなこと。
これが、実際に普及した"Mobile Computing" の実態で、
そのツールは、おおむね、Winodws 以外のOSで動いていたし、
従来のPCよりも性能の低いCPUでも十分なので価格も安く、
何よりも、従来の「モバイル」とされるようなPCよりも、
はるかに軽量で、携帯に適していた。

そして、それは、多くの人がPC一般から受けることのできる恩恵の
9割以上の用途を満たしているように見えた。

だから、現在
現在では、PCのジャンルというと、
スマホやタブレットの属する歩が方がメジャーになり、
むしろ、旧来の「純PC」の方が特殊になった感さえある。

しかも、このジャンル分類が正確ならが、
特殊である「純PC」のグループの商品の内容が
どんどんと販売台数でも優位である
メジャーなグループの方になびいている。
あるいは、なびいていなければ、
売れない、というような状況になっている。

10万円~20万円以上というような価格帯で、かつては、当然と思われていた
モバイルPCの商品群に属していても、
タブレットやスマホに近い形での使い方も可能であることが
必須になっているかのようだ。

一般的な用途のほぼ9割に当たる部分をカバーするのには
過剰な性能やそれゆえの無駄な高額帯の商品が、
より廉価の商品の真似をしないと売れなくなってしまっている。

新製品を売り込むには、通常都合のよいかもになりがちな、
大量購入の教育市場等にたいしても、
すでに、旧来の純PCでは説得力は消滅し、
ほとんど意味もなく、新たなタブレットの形状が
「売り」になっている。
そして、<教育のための道具の使いかた>というよりは、
「道具の ための教育のあり方」のようなものが
次々と提示されているし、
採用を決断する権限のある人たちがアホならば、
そのような「売り」は、簡単に受け入れられるかのようだ。

精査の余裕もない分野は、
常にわかりやすい「旬の商品」のようなものにはとことん弱い。
それに、高額で整備された専用の教室に、
最新のネットワークのシステムや
多数の端末が並んでいれば、
その光景だけでも、
なにかしら「教育的効果」が空想されてしまいがちだ。





#0122017-03-14


YouTube 等の動画サイトの普及で、
もともとほとんど観なかったTVをますます観なくなった。
私にとってTVの唯一の存在意義であった
毎週の「よしもと新喜劇」も
見ず知らずの人の貢献にで、
放送終了後1時間程度経過すると、
全体がアップロードされているから、
いよいよ、TVが必要ではなくなった。

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#0112017-03-14

ある友人が、
アートのプロフェッショナルとしての
道を歩みはじめたころ、
また、別の友人が、
職業エンジニアとしての道を歩み始めたころ、
私は、再び、途方にくれていた。
途方に暮れる「ティーン」の次は、
途方に暮れる「成人」というわけだ。


#010 物理的キーボード2017-03-11

物理的なキーボードからの
入力は、やっぱり、楽だと思う。
このタブレットには、
フラットな、いわゆる「仮想キーボード」が着いているが、
結局、物理的なほんものには、敵わない。



#009 H.U. にて2017-03-10


H.U. は、先日のS荘とは違い、
比較的新しい施設である。



動かぬ海のそば、
オーシャン・ライナーの一室にいるような気分になるのも悪くない。

豪華さや高級感が、
なんとなく苦手になる方法がある。(笑)

つまり、いつ、どこにいようとも、
自分の時間は、自分の時間に過ぎないことを知ると、
時空と環境が演出してくれるものが
なんとなく意味がないように感じられてくるのだ。

宴会を中心に据えた田舎団体の一泊旅行であろうと、
豪華客船でのクルーズであろうと、
結局は、人間は、個人のレベルで時空を感じるしか方法がない。

たしかに、どこへ行くかよりも、誰と行くかの方が意味があると
感じた時期や世代もなかったわけではないが、
今は、ただ、ひとりで過ごせるような時間だけに
憧れるている気がする。

多くの人々にとっては、
日々の職業と
余暇での他人様との関わりとは別物であるかのようだ。

けれども、
今となれば、本来余暇であるはずの
団体旅行の類への参加への思い出も、
何かしら、職業の記憶のように思い出されてくる。

つまりは、結局、
観光や人付き合いを得意とする人間ではない、
という結論が明らかになってくる。

夢や向上心や期待のキーワードにされがちな
いわゆる「旅」ではあるけれど、
このパターンが好きな人と、
それを、なんとも思わず、むしろ苦手な人があろうと思う。

しばしば、
外国に行ったり住んだりして、
外側からニホンを見ることには意味や意義があると
いう人たちもいる。

けれども、ほぼ限られた農村地帯を生活圏にして、
以後もそれを変えるつもりもない人たちにとって、
そんなことが、ほんとに、意味や意義のあることだろうか、
とさえ思う。

これは、たとえば、外国語の習得にも似ていて、
英語を学ぶことで
日本語の姿が見えてくるという人たちもある。
けれども、そういうパターンで日本語が見えることは、
日常の生活で日本語しか使わない人たちにとって
いったいどれくらいの意味があるのだろうか。

より広い視点、より多くの視点、
そして、それによる、人間性の広がりどーのこーの
人格の形成どーのこーの..... 。
こういうのは、「知恵」そのものというよりも、
まさに概念のための概念、
考え方のための考え方、あるいは、感じ方のための感じ方.....
のようなものだという気がして仕方ない。

要するに、人様が、人様の都合や便宜で顕示する「理想」とやらよりも、
それなりの「自分のあるべき状態」を
自分で考えて、自分で感じて見つけるようなことの方が、
結局、【幸福】や【心の平安】に近いのだろう。

ある人たちにとっては、
田舎に生まれても世界に羽ばたくのが良いのかもしれないし、
反対に、
田舎に生まれて田舎にいるままの方が
【幸福】や【心の平安】に近いパターンの人たちもあるだろう。

別に、いわゆる、極端なあまのじゃくになる必要もないけれど、
<一般的に【良し】とされること>の多くは、
しばしば、多数が属するある種の人たちの都合や便宜であることも
少なくないと思う。

たとえば、人間同士の関わりを【良し】とする前提のなかでは、
「村八分」と言えば、ある意味、悲しい状況かもしれないが、
そうではない人たちにとっては、
「人付き合いの義務20%OFF」の恩恵にさえ感じられると思う。

他人様の好意的な対応や
他人様への好印象を目標にするような
こだわりは、
もちろん、悪徳と言い切ることはできないけれども、
それこそが弊害になりうる性格の人たちだっているだろうし、
逆に、安易にそんな目標に依存しても、
それが、自らの【幸福】や【心の平安】の平安への近道だとは限らない。

私には、まるで、
多くの人たちは、
「私は、それなりに価値のある人間であり、
それなりに期待されている人間である」
という思いを根底に持っているように
感じられる。
あるいは、それを【幸福】と【心の平安】を得るための
手段だと思い込んでいるような気がする。

「私が息をして生きて居る限り、
私は、ただ、人様に迷惑を与える人間である。」と
心の底で覚悟している人たちは、きっと、とても少ないと思う。

あるいは、「唯一無二」に憧れる人は少なくない。
けれども、これは、特に社会的立場については、
絶対に不可能なこととも思われる
要するに、極端な話、天皇陛下が亡くなっても、
ちゃんと次の天皇陛下がおられるわけだ。
ましてや、ささやかな国民の、
それぞれのささやかな社会的立場なんぞ、
論外なのだろう。

「唯一無二」という想定や仮定は、
逆に人々を不幸にしてしまうことの方が多い。
この想定と仮定は、
目立たないけれど、結局は、
不幸の種のようなものでもある。

「代用」や「滑り止め」というような発想の方が、
むしろ、夢や希望があるように思う。

大学受験については、
絶対的な難易度の他に、
比較的滑り止めにされやすい学校と、
多くの人たちが第一志望として狙うような学校があると思う。

けれども、この第一志望という発想も、
実現するする/しないが、当然あるし、
なかには、この未練に固執するあまり、
せっかく入学した大学が
かつての「滑り止め」の発想や仮定で扱われていたため、
ともだちができたり、学校生活になれたりしても、
やがては、その幻想のような「第一志望」に
再び挑戦を試みる学生たちも少なくない。

大学には、本来の個人としての学問の追求以外に、
さまざまなブランド的要素があるのは、否定できない。

そして、それに集中するあまり、
大学にまで通って学べることのありがたさ、
あるいは、その学びを将来の職業につなげる心がけのようなものが、
霞んでしまうような学生もいる。
(きっと、学生時代の私だ。)

ーーーーーー

通常、人の人生は、受ける教育よりも、
自分が貢献する職業の方に大きく影響されるのだと思う。
最近流行の「貧困のサークル」のように
教育と職業には、
確かに、ある程度の因果関係がないではないだろうが、
それぞれの人の人生そのものを特徴付けるのは、
やはり、「働くこと」の方だろう。
ほとんどの人は、
学歴よりも、職歴の方が時間物理的にも長いし、
学歴とは、いわば消費歴であり、
職歴は、生産歴だろう。

だから、大学進学にも、
ちょうど消費と同じようなブランド指向が
入り込むのだろうと思う。

あるいは、就職活動の時期においては、
相変わらず、その指向から抜け出せない人たちもある。

就職の決まった大学の4年生は、
有名企業であればあるほど、
将来就職活動することになる後輩たちから
尊敬を得やすいし、
まだ、実践を経験したことのない内定者たちも、
まんざらではない気分で、
まるで、受験の合格体験記のように
自分たちの就職活動の経験を披露したりもする。

けれど、言うまでもなく、
それも、結局、長きに渡る意義や価値のある事柄ではないだろう。

就職活動期の感覚からいえば、
まるで「雲の上の場所」のような企業に就職できた人たちの
不運や不幸のようなものは、
逆に目立ってしまうようにさえ思う。

最近も、私の学生時代の就職活動期の感覚からすれば、
超エリート企業に思われる会社の新入社員さんの
痛々しい「労災」の報道があった。

もちろん、この人がブランド志向だけで
この会社を選択したわけじゃないだろうが、
改めて、ブランド志向の意味や意義のなさを痛感した。

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#008 Writings2017-03-04

タブレットは、現在のPC市場では、
まさに旬の商品と言えるでしょう。

すでに、ウィンドウズ搭載の
<純PC>の時期は盛りを過ぎた感じもあり、
廉価で低性能のハードウェアでも十分であることが、
消費者にも明らかになってしまったのだろうと思われます。