ふたつのフラッグ・シップ機2018-09-17


Nikon の D3 と D300 が発売されたときに、
「FX、DX、ふたつのフラッグ・シップ」という
宣伝文句がありました。

同格のように扱うことで、
まるで、APS-Cに、廉価・軽量以外の
価値があるかのような印象でした。

残念ながら、Nikon の APS-C は、
実利的には、
廉価においても、軽量においても
Sony の ミラーレス APS-C には
及ばないように感じます。

ただ、その黒いボディと Nikon のロゴは、
やはり、
Nikon F 以来の
「一眼レフ」のイメージは受け継いでいる。

実際、私もそれが好きで、
D90 と D3400 を持っています。

特に D90 は、
ボディー側にフォーカス用のモータを持っているので、
Nikon のAF初期からのレンズが使えますし、
それは、
Sony の ミラーレス APS-C で
そのままでは不可能な使い方です。

けれども、
廉価と軽量の
利点を生かすことができなければ、
APS-C や マイクロ・フォーサーズというのは、
35mmライカ判のデジタル移行時期における
便宜上のフォーマットということになるかもしれない。

小型のコンデジやスマホに使われている
センサーサイズに比べると、
どうしても中途半端なサイズという気がしてしまいます。

その一方で、
以前の35mm判と
肩を並べられるかのように
背伸びしているような印象のカメラが
多いような気がして仕方ない。
あるいは、そういう前世紀のイメージだけには
しがみついているけれど、
実態は危ういように感じるものもある。

例えば、Olympus のカメラは、
フィルム式時代同様に、
小型のボディを売り物にしていて、
その質も、Nikon や Canon と
肩を並べうるような感じを演出していますけれど、
その種明かしをすれば、
ライカ判に比べてはるかに小さな
センサーを使っているからだ、
というような図式は表には出さず、
高価な大口径のレンズで
必死に前世紀のイメージにすがっているように感じる。

Pentax は、そんなイメージにはすがらずに、
順当にライカ判のカメラを作った。

Panasonic は、ある意味、新参だけれど、
ちゃんとマイクロ・フォーサーズなりに
廉価・小型のカメラを作っているし、
ミラーレスで、
フルサイズに進出してくるようです。

けれども、おそらく、Olympus の現行の
マイクロ・フォーサーズ執着は、
将来、浮いてしまうだろうと思います。

他のメーカーがフルサイズのミラーレスで、
軽量化を図ってくれば、
同じ小型軽量だとしても、
旧式で、しかも、センサーが小さい
マイクロ・フォーサーズは
見劣りするのが目に見えています。
実際にはかなり高価になる
「F1.2 のレンズ」のイメージだけでは、
ごまかしが効かなくなるような気もします。

フィルム時代のフィルムの標準的なサイズを
基準とすれば、
それより小さなセンサーの製品は、
廉価と軽量以外には、
本来は意味も価値もないわけです。

コンデジやスマホが
その軽量をしっかり
有効利用しているのに対して、
その途中のサイズというのは、
やはり、それなりの廉価と軽量を
打ち出してこないと、
廃れて行くように思います。

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Written by "Qoheleth Feb 1961"

Cheap Trick2018-09-17


Cheap Trick は、
おおよそ、1970年代に最盛期だったロック・バンド。

米国産だけれども、
日本での人気の方がすごかったかも。

ライブ・イン・ジャパンの出来が良くて、
本国でも評価が上がるという、
パターンのひとつだったような気もする。

ある意味、
王子様風ボーカリストに
女性ファンがつくというようなスタイルだったが、
ポップ・ソングとしてのセンスは、
とてもいいと感じだ。

動画サイトで閲覧する限り、
活動が継続されているのは、
敬意に値する。

けっこう売れたライブ・イン・ジャパンのアルバムは、
後に完全版が出た。

悪くないアルバムだと思う。

このライブの後の、
"Voices" や "The Flame" は、
後にも残る名曲バラードだと思う。

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Written by "Qoheleth Feb 1961"

♪ I know what it is to be dead..2018-09-17


「死ぬとはどういうことですか?」と
尋ねられて、アインシュタインは、
「モーツアルトが聴けなくなることです。」と
答えたそうだ。

この偉人の答のなかにこそ、
もしかすると、
素人や凡人の真理もあるのかもしれない。

「生まれてきて、その人生、
いったい何をしたと言うの?」

と問い詰められて、
その返答が、
「ポップ・ソングをいくつか聴きました。」
だとすれば、
それは、人間独特の、
虚栄と、見栄と、体裁と、理屈と、体裁と、
自己申告と、自己顕示と、自己都合に溢れた
他のどんな答えよりも真実に近いような気もする。^_^

ヘンな言い方になりますが.... 。2018-09-17


ヘンな言い方になりますが、人様がバカにしたくなるようなこと、あるいは、無視したくなるようなことを並べているのが、むしろ、楽しい、と思うことがあります。人様においしく食べていただく餌をまくようなことには、やがて飽きてしまうからです。そういうのは、営業マンたちの真摯な業務活動であって、人間のプラーベートな心や魂とは別の分野のことのように思えるからです。私のようにたいした持ちもののない素人や凡人も、ネット空間越しに、昔なら、それなりのもの持つ人だけに許されたような「他人様の閲覧」の<可能性>だけを手にできる時代になりました。でも、この<可能性>の使い方は、発信者それぞれだろうと思います。そのなかでは、たとえば、業務のある人たちなら、業務に利用すると思います。そして、一方、一番の糞は、何もない人たちがそっくりそのまま<何かを持っている人>ごっこに使うことだとも感じています。それこそが、多くの素人・凡人たちが、前世紀【ネット空間】発生のときに学んだことではないかとも思っています。

Written by "Qoheleth Feb 1961"

【未知】(知らないこと)の消費2018-09-16


パソコン通信の時代に
急速に普及したことのひとつに、
【未知】(知らないこと)の消費というのがあったと思います。

つまり、何かの(趣味等)の共通データを
キーワードに、
【ネット空間】の電子的な検索により、
【見ず知らずのアカの他人さんたち】同士の
関わりが始まり、
お互いにとってのお互いの【未知】を
消費して行くような関係性の可能性が高まりました。

そして、それは、オンラインのやりとりから、
当時はしばしばオンラインと連動していた、
OFF会というようなものを通して、
おおむね短期(約1年未満)くらいの期間、
大いに盛り上がりました。

これが、前世紀の終わりに
PCの普及とともに流行した
第一次の【ネット空間】だろうと思います。

そして、その約20年後くらいに、
今度は、スマホの普及とともに
第二次の【ネット空間】が発生しはじめた
と言えるような気がします。

【パソコン通信】の草の根BBSとは違い、
おおむねどこかの企業が主催する
SNS等、
【ネット空間】のシステムは、
おそらくは、
広告閲覧のための人集めとして、
「【ネット空間】で友だちを見つけよう!」
というふうに登録者をあおります。
今では、登録したデータを徹底的に使って、
少しでも共通データがあれば、
関わりを提案してくるシステムは多いです。
そのことによって、
うまくいけば確実にアクセス数を増やせるからです。

そして、そのことで、
いつの時代にも、
ネットがらみの人工的な検索の結果と
人間本来のご縁を混同してしまうような人たちは
少なくありません。

ところがじっくり考えてみれば、
出身地であろうが、出身校であろうが、
それは、多くは偶然のデータの一致に過ぎず、
多くの人たちが期待するほど、
人間同士の魂なり、心なりの一致とは、
まったく関係のないことだという気がします。

ところが、人間というのは、しばしば、
「○○同士」というデータの一致を
それ以上のもののように錯覚したり、
あるいは錯覚したがってしまいます。

そして、【ネット空間】での、
関わりの意味や価値や意義というのは、
おおむね、そういう錯覚に依存しているとも言えます。

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共通データをきっかけに、
本来まったく疎遠であるはずの
【見ず知らずのアカの他人さんたち】同士が
【未知】(知らないこと)の消費を
お互いに開始するわけですが、
こういうことは、
本来の自然なご縁による関わりとは、
本来本質的にまったく異なります。

「どんなきっかけでも
知り合った人々は大歓迎」とでも言えば、
たいへん心が広く、開放的で、
たいへん愛情深い人間にでもなれたような気もしますが、
むしろ、古風で年寄り臭くて、偏見的な
「どこの馬の骨ともわからぬ人」というような
感覚の方が、一見、カッコ悪くとも、
実のところ、真理に近いのだろうと思います。

【ネット空間】空間なんぞない時代の
一見閉鎖的で古くさいような感覚は、
むしろ、人間が積み重ねてきた
長年の知恵のような部分だって
あったような気もします。

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ギャンブルとしての競馬での
恩恵(利益)が当てにはならないことについて、
ある人が、

「畜生が他人さんを乗せて走っているようなものが
当てになるか!」

と言いましたが、
私は、このような感覚のなかにこそ、
むしろ真理が潜んでいるような気がします。

同様に、
任意の【見ず知らずのアカの他人さんたち】に関する
「未知」なんぞは、
お互いにとって、
一部の人たちが期待するほどの魅力には
満ちていない....  というのがあると思います。

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「未知」の世界に憧れる
日本人の若い女性が
マザー・テレサに手紙を宛て、
「私も、インドの貧民街で
あなたのように愛を実践したいので
弟子にして下さい。お手伝いさせて下さい。」と
書きました。

マザー・テレサは優しく諭しました。

「愛を実践するのに、
インドのカルカッタまで来る必要はありません。
あなたの近くの方々を
愛することからお始めなさい。」

「物」ならいざ知らず、
関わりだけのために任意の「人」を検索すること
(つまりは、ネットでの友だち探しのようなこと)には、
たいして意味も価値もないことは、
前世紀の第一次の【ネット空間】の
残してくれた教訓だったのかもしれません。

おおむねどんな人に関しても、
その人の現実の身の回りの人々からは
相手にされないようなことや
興味も関心も持ってもらえないようなことが、
ある意味、ゴミのように【ネット空間】に
上がってくるのだと思えば、
まず間違いないと思います。

結局は、それぞれが、個人的に、
ほとんど自分fだけで、
そんな「ゴミ」を有効利用するようなことが、
ある意味、【ネット空間】の
正しい(?)、あるいは、少なくとも、
もっとも効果的な使い方だと思うことがあります。

あるいは、そうでなければ、
一時的な「異常」だろうとも思います。

そして、そのことは、
端末がPCだった前世紀も、
ほとんどの端末がスマホになった今も、
変わらないことだろうと思います。

いつの時代も、
「通信」とは「現実」の便宜に過ぎず、
どんなに便利であっても
「通信」そのものが自立したり独立したりして
意義や意味を持つということは
ありえないのだと思います。

そういう意味では、
【ネット空間】での
【見ず知らずのアカの他人さんたち】等との関わりとは、
あまりにも現代的な、
悲しく、寂しい「錯覚」の典型なのかもしれません。

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Written by "Qoheleth Feb 1961"

#003 カメラ様々2018-09-16

メーカーさんの利益のことだけでいいますと、本体を売れば、場合によってはそれよりも高価なレンズが派生的に売れる「レンズ交換式」のカメラはおいしいようですが、ユーザーにとっても、「レンズ交換式」の場合は、本体よりもレンズが主役になって、たいていは、好きなレンズというのが出来てくるようです。興味のない人にはどーでもいいことですが、「このレンズで、あれを撮った、これを撮った.... 。」というような思い出も、これまた、カメラ好きの人間には、ささやかな幸福に寄与してくれるような感じです。

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いわゆる「レンズ交換式」のカメラは、フィルムの時代は、「一眼レフ」とほぼ同じ意味でしたが、今は、フィルム時代同様にファインダ用に上がり下がりするミラーを持ったものと、それのないミラーレスがありますね。レンズを外すといきなりイメージセンサーが見えてしまうのがミラーレスということになりますかね。今年(あるいは、今後)の旬は、明らかに、フル・サイズ(ほぼライカ判)のイメージ・センサーを持ったミラーレスのタイプで、ソニーから始まり、Nikon、Canon....  と来て、まもなく Panasonic が続くとか。きっと数年後には中古で値が下がったところで購入していると思います。

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道具には、常に、使用時のことと、持ち運びことがあり、それはたいてい矛盾することが多いようです。カメラについて、使用時の瞬間のことだけを考えますと、私は、昔風に言えば、一眼レフにさらにモータードライブをつけたような大きなサイズが使い安いと思う。(Nikon F4S のサイズ)一方、持ち運びのことを思うと、100g台前半のコンデジが素晴らしい。(ちなみにそれ以上軽いと、存在を忘れて見失ってしまうことしばしば.... 。例えば、Nikon COOLPIX S01 とか.... 。)

#002 I AM NIKON : Special Movie2018-09-16

I AM NIKON : Spedial Movie 「想いを、受け継ぐ」は、
おそらく、私の世代の Nikon 好きには、
たまらないのではないかと思う。

この動画の密かな主役は、
おそらくは、60年も継続されている「Fマウント」かもしれない。
(今年、フルサイズのミラーレスに関わり、
ついに新しいマウントが出たけれど。)

けれども、1980年代の一眼レフのAF化や、
1990年代のデジタル化を乗り越えて、
基本的に不変だった
Nikon のFマウントに敬意を覚えるファンは多いと思う。

動画のなかで
"F3"や"D750" 等の一眼レフのカメラのボディは、
それぞれの世代を象徴し、
「受け継がれる」35mmの単焦点のレンズは、
不変の大事なものを象徴しているかのようだ。

ある意味、レンズ交換式の一眼レフの主役は、
ボディではなくてレンズの方だろうと思う。
あるいは、ボディに関わることは、
その進歩の過程で移ろいやすいけれども、
レンズには、時間的により普遍的な何かがあるとも言える。

同じレンズであっても、
デジタルカメラは、イメージ・センサーや
画像処理エンジンの違いでも
差が出るようになってまったが、
フィルム式の時代には、
その差はほとんどなかったとも言える。

けれども、あれを撮った、これを撮ったという、
レンズの経歴や思い出にこそ、
意義や価値を覚えるカメラ・ファンは多いと思う。
私にも、そんな Nikkor が1本ある。

この動画は、
そんなこだわりを見事についていて、
とても感動的だ。

この先、おそらく、Nikon のカメラは、
ミラーレスのZマウントが主流になって行くのだろうが、
Nikon ファンたちの
Fマウントへの思い入れは不変だろうと思う。

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#001 Florence Scovel Shinn2018-09-16

英語版のウィキペディアでは、
Florence Scovel Shinn は、
"metaphysical writer" と説明されている。

"metaphysics" は、英語の辞書では、
"the part of philosophy
about understanding existence and knowledge"
と定義されている。

「存在と知識に関する哲学」とは、
なんのことか良くわからない。

同じ辞書に分かりやすい例文があった。

Most teenagers ask themselves metaphysical questions,
such as "What is love?" and "What is death?"

なんとなく分かる。

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一方、私自身は、彼女の著作は、
聖書の説明書なのだと思っている。

私は、これほど分かりやすい聖書の説明を
他に知らない。

日本人により、日本語で書かれたものよりも、
むしろ、分かりやすいとさえ思う。

日本人による、比較的メジャーと思われる
聖書の解説書がいくつかある。
昔らからの聖書解釈の定番のような本で、
例えば、
「聖書講義○○」、あるいは、
「○○書講義」などというタイトルがついている。

私の読み方が悪いのかもしれないが、
私には、
その類の書物は、
読者のための解説書というよりも、むしろ、
著者の強烈な「キリスト教徒宣言」のように
思えてならない。

もちろん、古くは戦時中のものさえある
それらの定番解説書は、
今よりもずっとキリスト教が
理解されなかった時代背景を持ったものだから、
そのような「強さ」を必要としたのかもしれない。

一方、Shinn もその時代の人だけれども、
あっさりと、シンプルに
「聖書は人生のルールブックですよ。」
と先ず教えてくれる。

これは、彼女の著作では、
日本語訳の種類が一番多く、
処女作にて代表作でもある
"The Game of Life and How to Play It" の
冒頭の言葉だ。

このタイトルからして、
とても親切で分かりやすい。

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ところで、聖書翻訳についても、
当然ながら、日本と米国では
アプローチがずいぶん違うと思う。

基本的には、プロテスタントの国の
仏教の国の違いだろうか。

先ず聖書の原典に対しては、
英語も日本語も外国語ということになるが、
その翻訳の種類の数は桁違いだ。

そのなかで、
日本語訳の場合は、
今でも訳に関して「格調高い」云々が言及されているが、
英語訳の多くは、
とにかく「わかりやすさ」を追求しているように思える。

英語を母国語としない人たちを対象としたもの(CEV等)
聴覚障害者の人たちのための翻訳(ERV等)も存在するようだ。

英語訳の聖書は、
今でも、KJVを頂点に様々裾野が広がっているようだが、
日本語訳の場合は、
文語版に当たる明治・大正訳は、いわゆる口語訳に
差し替えられた感じで、
現行では、新共同訳がスタンダードで、
まもなく、もうひとつ新しいものが出るそうだ。

もちろん、これは善し悪しの問題ではなくて、
聖書翻訳について
何かのメッセージをなんとか伝えようとする
それぞれの文化のなかでの
関係者の意気込みというのは、
まさに、本の本質的役割を示すものだし、
聖書が単に"The Book" と呼ばれることにも納得が行く。

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私には原典であるヘブライ語やギリシャ語、あるいは、
アラム語は分からないので比較のしようはないが、
日本語や英語で読む聖書は、
やはり、なにかしら、
他の書物では感じられない神聖なものに満ちていると感じる。
もっと極端に言えば、
そこにすべての小説の筋書きや、
すべての講釈本の発想が
おおむね結集されているようにも思える。

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私は、
何かあるとふと思い出したように、
Florence Scovel Shinn を読み返し、
聖書を確認してみる。

こういうことは、
知識の吸収でもなく、知恵の取得でもなく、
なんと言えばいいのだろうか、
たいそうな言い方をすれば
「生き方」の確認のようなものだろうか。

インターネットの時代には、
Florence Scovel Shinn についても無数の
引用サイトが存在するから、
具体的な内容を私が繰り返すのも無粋だろうと思う。

Florence Scovel Shinn の聖書の引用は、
すべて KJV からになる。
時代を考えれば当然かもしれない。

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Written by "Qoheleth Feb 1961"

おしゃべり(会話)2018-09-16


他人様とおしゃべりする代わりに、
オンラインに落書きするのが趣味かもしれません。

最近は、FaceBook に写真やオンラインのリンクとともに
どんどん書き込んで行けるので、
文字だけでだらだらやっていた頃よりも、
自分で振り返って楽しいし、
また、覚え書きにもなって便利です。

写真が好きなら、現在ネットで氾濫する様々な場所に
アップロードして、より多くの人々に閲覧していただくのが
自然な流れなのかもしれませんが、
なにせ素人ですので、
基本的には、ぜんぜん人様のために撮っていないし、
反対に人様の閲覧に値するような写真なら
その道のプロの方たちがおられる。

私も、ルーク・オザワさんのヒコーキの写真、
米美智子さんの自然の写真、
あるいは、定点観測で有名な
富岡畦草さんたちの写真が好きで
よく眺めています。
(なぜか、Canon 系の人たちばかり.... 。)

この人たちの写真は、先ず必ずと言っていいほど、
人間は主題になっていない。
米美智子さんに至っては、
ぜったいに人が出てこない、といってもいいほど。

けれど、私も、カメラについては、
その方向性が好きです。

人を撮るとしたら、
家族等の親しさを撮る以外には考えにくいのです。

私は、写真のなかにおいては、
まず人よりも物の方が偉大であったり、
権威があったり、価値があったり、意味があったりする
と感じています。

私には、基本的には、しばしば「人よりは物」という
感性があるのですが、
写真においてそれは実現されるような気がします。

安易な言い訳をせず、
説明をせず、
繕いをせず、
自己申告をせず、
自己顕示をしない「物」は、
その存在感において、
「人」よりも、はるかに潔く、清く、そして、ある意味美しい。

幸か不幸か、あるいは悲しいかな、
自分は「人」の側に生まれてしまったので、
逆に、そういう「物」に憧れを抱いてもいます。

-------

息子が幼いころ、
家内は、いつも、機械や車両等を見ては、
「○○が働いている。」と教えていました。
「動いている」ではなくて、
「働いている」でした。
そして、それは、現在でも、
息子の語彙の一部になっているかのようです。

けれども、私は、この表現がとても好きです。

「物」は、まさに、黙々と働きます。

そう思うとき、人間の「黙々」は、
ほとんどウソであることさえ多い。

そういうとき、私は、「人」よりも「物」に
敬意を覚えることがあります。

-------

父は、現役時代には、商売人でしたから、
ある意味冗談で、また、ある意味ちょっとした誇りとともに、
「金はウソをつかんからな。」と言いました。

これは、世間一般からしたら、ある意味、
「反教育的」な考えかもしれませんが、
どうも、私は、自分の人間関係の経験の範囲内で、
自分についてあるいは他人様について振り返るとき、
むしろ、この考えの意味や意義を思ってしまいます。

つまりは、簡単に言ってしまえば、
人間というのは、自称しているほど、
「物」や「お金」よりも素晴らしいとも限らない、
ということを思います。

親睦、社交.... 。
世の中は、一般的には、
ごく限られた人間関係マニアの人たちの
嗜好が重視されているような気もします。
あるいは、時と場合によっては、
それが偏重されているようにも感じます。

数年前「絆」というコンセプトが話題になったとき、
私の心のなかには、
なにかしら、寒い風が吹いたような気がしました。

人様の役に立とうという心がけや
人間の優しさにはそれなりの
敬意を抱いているつもりですが、
けれども、わざわざ顕示される「絆」というようなものには、
私は、やはり、苦手な思いを抱いてしまいます。

-------------

そういう落ち着かない気分のとき、
「物」は、ただ存在し、そして、何かを示している。

必死になって、自分や他人様のような「人」のなかに、
神を探してみても、
なかなか見つかることはないが、
「物」には、しばしば神を感じることができる。

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ベランダで
「なぞの旅人」の写真を撮ってると、
家内が

「とーさん、そんなものに夢中になるって、
もう、終わっとるなー。」

と冗談めかして言いました。

確かに若い頃、
人への興味は、やがて、動物への興味に移り、
それが植物への興味に移り、
最後に石に至り、
そこで、もうおしまいだ.... 。

と、聞かされたことがあります。

けれども、
限られた生涯の
人間関係マニアのような人以外にとって、
それは、ある意味、
人間の煩悩の迷いの課程でもあるような気がします。

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まぁ、こんな思いをいちいち説明するのも、
もしも、人間関係なんぞ選択すれば、
たいへんめんどくさいことですし、
だいたい、人間関係一般、
他人さんたちは、
そんなことなんぞ期待していません。

誰もが、きっと、
魂に心地のよい人や物を
自然に選択するのだろうと思います。

ある種の人々が人間関係についての
関わり過多になっしまうような
ネット空間の利用の仕方は、
とても残念な使い方のひとつだと思っています。

便利なシステムであっても、
デフォルトでは、
とにかくデータの一致だけから、
人と人をつなげようとするような根底の流れがあります。

けれども、私のようなタイプの人間には、
その間隙を縫うようなことが、
むしろ楽しみになります。

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Qoheleth 2018

FaceBook 22018-08-18


FaceBook は、当初、あまり乗り気ではなかったけれど、
アカウントだけは誰かを経由して持っていた。

Kaylee Rodgers さんの場所を楽しみに見ていたり、
Nikon の場所を見ているうちに、
だんだんと利用するようになってきた。

メッセンジャーで昔の知り合いに
メッセージを送ると返事が来たので、
ちょうど、子供のころ、
野球選手にファンレターを書いて
返事が来たように、
その「つながり」がおもしろい気がした。

実に何年かぶりに、
そういうことで気分が良くなったので、
少し続けてみようかと思った。

誰も閲覧しない写真、誰も読まない文章なんぞを
並べて置いても、他の場所よりは、
「旬」の場所だろうから、
ベターかなと感じたのだ。

もちろん、この20年と相変わらず、
具体的なテーマがあったり、
少しでも人様の役に立つような提供ができるわけでもないし、
以前にも書いたように
データの一致による関わりに興味や関心があるわけでhない。
FaceBookなら、
おそらく世界中の無数の Bob Dylan のファンを
ヒットさせてくれるだろうが、
そういうことは本来の人と人とのご縁とは、
一切、まったく、関係のないことだと思っている。

他にも、住所や業種や出身校がらみの
データの一致があろうが、
それも同じような感じに違いない。

.... というか、その類のヒットは、
ネット空間が発生して以来繰り返されていることだし、
この10年くらいの間、
スマホの普及でリバイバル的に
流行っているようなことなのだろうと思う。

端末がPCに限られていた時期に比べると、
スマホの普及で、
裾野はずいぶん広がっているだろうが、
これも、あと10年くらいで、
ほとんどの人が慣れて飽きて行くし、
その後は、もう、ペットにでも持たせない限り、
ネット空間に関わる端末数のこれ以上の
普及はあり得ず、
いよいよ終わりかなとも思う。
ネット空間の発生・普及から
30年以上くらい経過して、
ちょうど一世代.... 。

SNSも含めてネット空間のいくつかのシステムは、
おそらく
「昔懐かしの.... 。」になることだろう。

そして、人と人が関わるには、
きっとまた新たな形態も生まれるのかもしれない。

30年前には、ネットが普及し尽くせば、
現実の世界での会議等の数は
うんと減少するだろうという予想もあったが、
実業・実務について、
あまり、そういうことが
決定的になったとも思えない。

パソコン通信の時代から、
趣味等のグループの発生や維持にも
ネット空間が関わってきたが、
基本的には、どんな活動も現実の共有が重要で、
ネットがらみの「通信」が
都合や便宜以上になり得ることは
まずないだろう。

ネットに馴染みが薄い人ほど、
この都合や便宜を実態と見間違えることが多く、
10年くらい経過すると、
みんなが順番に気づいて行くから、
スマホが普及し尽くしたと思われる今、
そのような錯覚は、
急速に減少して行くに違いない。

昔から存在する電話や手紙に比べると
比較にならないほど便利になったけれど、
やはり、通信手段は、常に、実態の都合や便宜
を超えることはあり得ない。

それは、つまり、人間自身がデジタルではなくて、
アナログであり、
何よりも現実を基準にする生き物だというのがあるだろう。

動画サイトがどんなに普及しても、
実際のスポーツの大会やコンサートの
数が減少したというような話は、
あまり聞かない。(笑)

そういう意味では、減少したのは、
たとえば趣味としてのショッピングのようなことか?
いいえ、これも、
全体的に激減したというほどでもないだろう。

通販のシステムで満たされる買い物と、
「きょうの昼飯!」のように、
満たされない買い物があるからだ。

私は、最近、こういう場所で作文して遊んでいると、
そのままなら、それが自動的にクラウド日記として
残って行くことに気づいた。(笑)

もっとも、
残るべき価値があるかどうかの方が問題だが。(爆笑)

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Written by "Qoheleth Feb 1961"