ノートPCの話2016-06-30


ただ持ち歩くだけなら、
スマホやタブレットのある時代には、
あえてノートPCというと、
メーカーによって、
やたら「ビジネス」のイメージが全面に出されているかのようだ。

広告でも、
法人様向きと個人様向きが分けてある場合もあり、
ますます「プロ仕様」というようなイメージが高まり、
「高性能」というのが全面に出てくるわけだが、
実際には、
PCは法人の業務用途よりも、
個人の遊びの用途の方が
高い性能を必要とする場合が多い。

業務用のごく基本的な用途といいうのは、
すでに、前世紀のMS-DOSの時代から、
PCはある程度満たしていたと思う。

カラープリンタで年賀状を出力することや、
ビデオを切ったり貼ったりして
DVDに焼き付けるようなことは、
それが出始めたころ
個人でそれをやって遊ぶPCの方が
より高いスペックを必要とした。

もともと1バイト文字しか扱えなかったPCは、
おおむね、
漢字表示 → 静止画像 → 音楽 → 動画 の順番で
PCは、より高い性能を必要としてきたし、
それと同じ順番で、それぞれのデータファイルの容量も大きくなる。

たいてーのPCで動画の切り貼り遊び出来るようになると、
特に高性能を必要とする遊びのひとつは、
いわゆる「ゲームPC」というやつだろうか?

【ネット空間】がプラットホームのひとつである現在では、
ハードウェアの性能よりも、
むしろ、インターネットの回線の速度が
パフォーマンスの優劣に関係するみたいだ。

一般的な人間の視覚や聴力を越えても
それに関わる様々なデータの容量がどんどん上がってゆくのは、
おおかたハードウェアの進歩に対比しているかのようだ。

必要不可欠で便利な用途が可能になった後には、
あとは、ハードウェアの性能アップのために
不自然に作られて提供される用途によって、
逆に人間が使われているかのようだ。

そして、作り手が無駄に作り、
(実際の創造や生産はアプリケーションの役目だろうが)
他の人は興味も関心もわかないようなデータが
どんどん増えて行く。

より小さな端末がどんどん売れて、
PCと呼ばれているものの需要が減るのは、
結局は、
ずっと以前に、PCは、必要不可欠な用途を満たしてしまったから、
今度は、できるだけ持ち運びが楽なものが良い、
という当然の発想だろうと思う。

あるいは、動画を切り貼りして、音楽を挿入して、
DVDに焼き付けて配るようなことを
珍しくも思わず、
ましてや、創造だの生産だのと思うような世代が
どんどん減って行くからだろうと思う。

あるいは、<PCを使うこと>自体が、
特殊な技能であるような世代は、
もういわゆる現役世代にはありえず、
強いていえば、それは、現在80歳前後の世代だろうか。

定年退職のころ、ちょうど、PCが普及して、
老後の楽しみとして
一式購入した人が多いような世代だと思う。

今のところ、
人生の途中大人になってからPCが普及しはじめた世代が
まだ生き残っているから、
「どれだけPCを特別視」するかという程度は、
そのまま、その属する世代を明らかにするかのようだ。

1961年生まれの私は、
20代になってから、PC等を使い始めたので、
たとえば、ワープロを使って、
自分の言葉がフォントで示されること自体が
新鮮な驚きだった。

それ以前は、自分の書き言葉が手書き以外の方法で示されるのは、
たとえば、それなりに才能のある人の
出版物等に限られていたからだ。

それ以外には、英文タイプライタが表示する
アルファベットがあるくらいだった。

そして、そういう振り返り方自体が、
ある年齢以上の世代の特徴といえるかもしれない。

私の息子の世代には、
すでに Windows のGUIがあったから、
物心がついて手も自由に使えるようになった息子は、
マウスを使ってアイコンを「ゴミ箱」に運ぶと
それが消えてしまうことがおもしろくて仕方ないようだった。

ケータイ電話とEメールの普及で、
色事に関するおもしろい小説等がなくなってしまった、とも言われる。

たしかに、連絡において相手にたどりつくまでの
努力や苦労が報われる喜びは
色事がらみのエピソードの醍醐味かもしれない。

だから、特に色事について、
基本的な「苦と楽の法則」のようなものが、
もう、壊滅してしまっていると言えるのかもしれない。

「ネット越しで誰にも手に入れられる【安物】」
になってしまったのだと思う。

かつて、たとえば「愛人」というものは、
それなりの甲斐性がある男性の特権やステイタスであった。

けれども、21世紀の今、
それは、甲斐性のある男性どころか、
失業者や開店休業の店主のような人たちが
ネット越しに簡単に手にするものになった。

だから、「愛人」と聞けば、
昔のように大物政治家や企業家を思い出す人よりも、
むしろ、
ネット中毒の失業者等を思い浮かべる人の方が
多いのではないだろうか?

芥川龍之介のエッセイの時代以上に、
色事は、
「忙しい人の遊び」よりも、
「閑人の仕事」になってしまったかのようだ。

------------












福祉ボランティアの作業2016-06-29


数年前まで、
いわゆる「福祉ボランティア」の分野でやっていた作業は、
「要約筆記」と呼ばれ、
耳の不自由な人たちのために、
文字表示をしてゆくことだった。

もともとは、手書きでOHPを通して
大写しにしていたそうだが、
私の所属するグループは、
PCとデータプロジェクタを使っていた。

作業をする人間は複数だったので、
ちょうど、その少し以前から普及しはじめた
ピア・ツー・ピアのLANが便利だった。

文章執筆の作業ではないのだが、
リアルタイムで入力する際には、
さほどタイピングが早くない私でも、
日本語の2バイトで毎分100文字を越えた。
つまりは、毎分200ストローク程度だった。

瞬間的には、
ノートPCのキーボードを酷使するタイプの作業だった。

気に入ったキーボードで
入力の調子が良いときは、
音声を聞く自分の耳と、指先と、
キーボードがひとつになったような気がした。
常にそういう状態ではないのだが、
そういう瞬間は確かにあって、
私は、自分では、
「タイピング・ハイ」と命名していた。

知る人ぞ知る
ThinkPad 600 は、
その鍵打感の良さが以後も語り続けられているが、
キーボードという部品自体は、
ThinkPad 560Z と同じものらしい。
ところが、キーボードの下にある筐体の頑丈さゆえに、
ThinkPad 600 の場合は、絶妙の良さがあったらしい。

要約筆記の活動では、最終的には、私は、
ThinkPad と同じユニットを使った、
外付けキーボードを、
スタンドを立てずに、机の上にべったりと置いたときの
鍵打感が好きだった。

それと、精密機械のメイン基板の上で、
キーをたたき続けるというノートPCの構造は、
長時間ではないにしろ、要約筆記の入力の激しさでは、
機械自体に悪いような気もしていた。

上記の外付けキーボードは、
おそらく当時のRシリーズやTシリーズと
同じ部品だったかもしれないが、
やはり、19mmというピッチは
私の指や打ち方には一番馴染んだように思う。

数年の活動の間、
その初期においては、
PCは、まだ、ひとり一台という感じで、
それぞれの一台をみんなそれぞれ大事に使っていたのだが、
21世紀最初のその数年間というのは、
前世紀とはまったく違う感じで、
PCという商品が普及して行く時期だったので、
そのうち、中古市場なんぞも充実しはじめて、
要約筆記専用のPCとして使用するようになった。

PC要約筆記に使うソフトウェアは、
さほどハードウェアの性能を要求しなかったし、
LANも、
無線接続以上に最新のものは必要ではなかった。

最初は、ほとんどのメンバーが、いわゆる95/98系のOSだったが、
そのうち、Windows 2000 や Xp が標準になり、
現場の本番中に、誰かの端末がフリーズするようなこともなかった。

個人的には、
それまでは、遊びとしてしか使いようのなかった
ピア・ツー・ピアの環境等が
少し人の役に立つことに使えるというのは、
嬉しい気がしていた。

PC要約筆記で
その場その場で組むネットワークは、
最終的には、
「出力機」と呼ばれるPCから
プロジェクタに出力してたのだが、
クライアント・サーバー型ではなくて、
誰からも他の人の入力状況が閲覧できるという
ピア・ツー・ピアの仕組が役に立っていた。

これは、おそらく、
Windows 95 あたりからのTCP/IPが使える以前には、
私たちのような素人のユーザーには、
けっこう困難なことだったのでは、と想像する。

だいたい、それぞれの人が決まったアドレスを設定して、
どこの現場でもそれを使っていた。

具体的な入力ルール等は、
結局、確立する以前に、私は活動とは疎遠になった。

あるいは、私には、
結局「福祉的な人間」というのが
似合わなかったのかもしれない。

------------

私の属する業界では、
ネットワークの普及等が比較的遅いこともあり、
21世紀の最初の空間は、
多くの人が、ちょうど筆記用具のように
個人所有のPCを使わざるをえない状況だった。

まだ全体的に試行錯誤で、
管理等も甘かった。

あるいは、ネットワークはむしろ、
職場の有志で
ピア・ツー・ピアのLANを組むことというような
雰囲気さえあった。

そのうち、私物でも、
マック・アドレスを登録したもののみに限るということになり、
やがて、
いちおう、しっかりしたクライアント・サーバー型の
ネットワークが設置されて、
やがて、みんなに公用の端末が行き渡るようになった。

職務用ネットワークで
いちばん印象的だったのは、
ワープロ専用機の時代とは違って、
出力のときには、それぞれの端末から、
ネットワーク・プリンタのところまで
歩かなければならない、とうことだった。

もちろん、印刷時間は、
比べものにならないくらい短くなってはいるのだろうが、
それぞれの人間が、
ネットワーク・プリンターまで印刷のたびに往復する
労力はバカにならないとも思う。

今でも、一般的に、常時使うアプリケーションは、
やはり、表計算か文書作成のものだろう。
私の職種の場合は、
プレゼンテーションのアプリさえ使うことはない。

もう10年以上、
いわゆる業界専用ソフトのようなものを紹介等されるのだが、
私の場合は、こういうのが驚くほど革新的であることは
ほとんどないような気がする。

かつて、PC好きの人たちは、
ベーシックで自分の作業に対応したアプリケーションを作ったらしいが、
たしかに、現在のエクセルのマクロのように
自分のやることや、自分の使い勝手に応じた
作り物をするというのは、
PCの便利なところかもしれない。

専門家ではない、
同業種の人たちが作った
ワークシートや書式等を
ありがたく使わせてもらうことも多い。

ネットについては、
職務的なからみのものでも、
電子データで配信されることが増えたのは
喜ぶべきことだと思う。

電子データの良いところは、
大容量の資料等でも
必要な場所だけつまみ食いして
プリントアウトできたりするところだろう。

逆にEメールというのは、
締め切り間近の<飛び込み業務>の類を
増やしたといえるかもしれない。
相手の顔も見ず声も聞かずに
一方的に依頼できてしまうのは、
遅れた業務や突発的な業務において、
依頼する方には都合良く、
依頼される方には都合悪い。(^^;)

-----------------------



模倣2016-06-28


あるレベルで誠実な人は、
おそらく、模倣のなかでも、
それを基調に創造ができるのだと思う。

なにもそれは芸術や技能等による
作品のようなものだけの話ではない。

心遣いの言動や何かについての感想さえ
他人を丸コピーして
平気でいられるような人はいると思う。

けれども、結局、その類の人たちなくしては、
世間で言われる「流行」や「風潮」のようなものも
ありえないのかもしれない。

けれども、さすがに、
より多くの人がただの丸コピーだと気づいて、
見向きもしないようなパターンもある。

たとえば、
学校のクラブ等で
「運動中水を飲むことは厳禁」というような発想や
いわゆる「ABO式血液型と性質の関連」のようなことは、
「昭和」の懐かしさに満ちているかのようだ。

もちろん、たまたまそれが好きで関わっている人もあるが、
「ニホン人でも英語が必要」という幻想は、
今でも根強く残っているのではないだろうか?

私たちの世代も、特に、ことあるたびに
そんな幻想を言いふらす他人の影響を受けてきた。
もちろん、幻想や言いふらしても、
そのおかげで食わず嫌いにならなくて済む場合もある。

昭和40年以降、誰でも外国に行ける時代や、
昭和45年の日本万国博覧会の影響だろうか、
「いつしか海外へ行くときに英語は必要」と言われることは多く、
やがて中学生になった私は
けっこう真面目にこの「新しい勉強」に取り組んだ。

テープに録音された英会話の教材で
私が大好きだったのは、
「入国先の審査にて」とかいう場面で、
そこでは入国審査員といろいろと
英語でやりとりをして、
最後に審査員はほほえんで
"Have a nice trip ! " というものだった。

ほとんどその場面を暗記したまま、
高校を卒業すると
私ははじめて外国に行く機会に恵まれた。
最初に入国したのはカナダだった。

o(^-^)o ワクワク しながら、
入国審査に望んだが、
職員は一言も発することなく、
ただ、パスポートの写真と私の顔を
不機嫌そうな顔で見比べて、
ビザのハンコをポンとついておしまいだった。(^^;)
以後、外国の入国というのは、
おおむねそれが普通であることを知った。

南下して、
米国に行くと、
サンフランシスコの夜道では、
オープンカーに乗った
売春婦の集団が、
「おにーさん、あそびませんか?」と
日本語で客引きをしていた。

以後、日本からの海外旅行で一般的な外国で、
商いを行う人たちは、
だいたい日本語で話しかけてくると知った。

要するに世間で言われるほど
英語は必要ではなかったのだ。

--------

英語学習推奨が再び見られるようになったのは、
日本では徐々にワープロ専用機の使用が
PCへと移行して行くような時期だった。

「MS-DOS は、英語で、
PCは基本的に英語で動いているから、
PCを使いこなすためには、英語力は必須」とかいうものだった。

たしかに、
"copy a:\config.sys b:"
(Aドライブの config.sys ファイルをBドライブにコピーせよ。)
というようなコマンドには、
少しだけ英語単語や英語の構文のノリがないではなかった。
けれども、やがては、
GUIが一般的になると、
コマンドなんぞ知らなくても誰でもPCを使えようになった。

次は、インターネット前夜で、
これまた
「WWWは英語のものがほとんどなので、
インターネットをうろうろするには英語力が必須」
というものだった。

たしかに、1995年の前半ごろまでは、
その傾向はあった。
けれども、それとて、
以後は、ご存じの通りの状態で、
ごく一時的なものに過ぎなかった。

こういうことは、よっぽどの誤解か、
あるいは、英語くらいしか得意なことのない人が
言いふらしたことを、
他の人が丸コピーしたものだと、と思うようになった。

だから、私は、
「戦争に負けたから、
日本の義務教育でも
敵国の言葉を勉強しないといけないのだ。」と思うことにしているし、
私にとっては、
それが一番納得が行く。

多くのことについて「必要」は、
説得力のある理由にされる。
けれども、じっくり考えてみると、
そうではないことも多い。

日本には、<英語でしか意思疎通の出来ない人たち>の何倍もの数の
<手話でしかコミュニケーションの出来ない人たち>というのがいる。
けれども、おおむね、手話よりも英語の方が
重要視されている。
だから、それは、必要からというよりも、
きっと敗戦が理由なのだろうと、ますます確信する。

<国際>や<情報>は、
有益な販売広告用語だと聞いたことがある。
大学の学科の名前等
これを使った方が人気があるらしい。
英語やPCの技能も
それに対応するかのように扱われることがある。

どこかの大学の<国際情報学部>を出ていて、
英語やPCが得意であれば、
エリートにさえなれそうだ。(笑)

<国際>とは、地理的な遠さや広さへの憧れの象徴なのだろうか。
<情報>とは、未知や未来に対する憧れの象徴なのだろうか。

ただ、年齢とともに、
だんだん、そういう「憧れ」は劣ってくる。

それらに関わることは、
他人に対する見栄や体裁には好都合のこともあるが、
自分で向かい合う自分の本心や魂とか関わりにおいては、
クソほどの役にも立たないからだ。

あるいは、いくら過去に
留学や海外業務の経験があっても、
現在怠け者の人たちの将来は、
そんな経験ない現在勤勉な人たちにも劣ることだろう。

そして、人間関係において、
具体的に現在の時間共有に関係のないような
過去の経験なんぞ、
どんどんぼろが出て行く。

そんなものは、ネット空間での
【見ず知らずのアカの他人さんたち】との関わりのように、
<より印象づけるためには便利>のものに過ぎないからだ。

いわゆる
<自慢>というのは、
精神的にはずいぶんと屈折した状況だろうと思う。

今現在の自分本体とは関係のない、
過去や他人の手柄や所有物についての
様々な自慢話が
冗談ではなくて本気で繰り返されるのは、
そのままその発信者の今の中身の悲惨さが
披露されているかのようだ。

他人の
<自慢>に対して、
「気分悪い」などというとらえ方もあるだろうが、
一番正確なのは、
<自慢話>というのは、もっと根深く、
それは、
その話し手の、現在の
なんらかの致命的欠如を示しているということだ。

他人の自慢は、
聴き手の聴き方によって、
その有無や程度差はあるだろうが、
冷静に観察すれば、
やはり、基本的には
なんらかの<優越感らしき表現>
を利用して、
<自らの致命的な劣性の部分の本質>
を補っていることが多いと思う。

「自慢ばかりする人は感じ悪い、嫌われる。」
というような社交エチケット・レベルよりも、
もっと、根深いものを、
自然に浮き彫りにする何かが
<自慢>という態度と表現かもしれない。

過去の実績や
関わる人間についての手柄話の
かげには、
その話者の致命的な欠如の部分が
見え隠れするように思う。

----------



ThinkPad X402016-06-28


ノートPCで、いわゆる「薄型」が定着した時期(1990年代後半)
ThinkPad の「モバイル路線」は、
約10インチの画面の<B5>サイズだった。
"ThinkPad 240"、"ThinkPad 1124"、"ThinkPad s30"等は、
なんと言っても、キーボードの良さで、
当時の他メーカーの同じジャンルの商品に総合的に勝っていた。
他のメーカーが、そのジャンル一番のの軽量や、
CPUのクロック周波数を争っていたころ、
ThinkPad は、ひたすらキーボードが追求されていたと思う。

ところが、このサイズは、どうも、
国内では人気でも、世界標準では、あまり人気がないらしく、
21世紀になると、IBM(当時)は、
突然、自社のモバイルは、Xシリーズであるとし、
それは「リアル・モバイル」と呼ばれはじめた。
当時のXシリーズの最新機は、
"X30" だった。
以後は、その"X30" が、
IBMのモバイルのフラッグシップとなった。

Xシリーズは、一回り大きな、
"ThinkPad 560" > "ThinkPad 570" の流れで、
その代わりにディスプレイは約12インチだった。

このサイズは、"ThinkPad 240" のように、
一回り小さな18mmピッチにしなくとも、
あるいは、"ThinkPad s30" のように筐体からすこしはみ出さなくても、
18.5mmのキーボード・ピッチを得ることができるサイズだった。

けれども、次の"ThinkPad X31" あたりと並行して、
"ThinkPad X40" が登場し、
これは、あえて、標準よりも小型のHDDを使うなどして、
"X30" や "X31" よりはほんの少し小さいモデルだったので、
以前からの「B5ノート」のファンには歓迎された。

--------

21世紀の最初の10年くらい、
私はいわゆる福祉ボランティアの活動に参加していて、
それは、PCの入力の作業が主だったので、
小型でキーボードの良いPCを
中古で探していた。

いろいろ使ってみると、
やっぱり、自分には、19mm のキーピッチのものが合うような気がした。
当時でいえば、ThinkPad の TやRのシリーズは、
そのピッチだった。

そのころ、ちょうど、人気のある ThinkPad のキーボードを採用した、
外付けのキーボード・システムが発売され、
それも、19mmのピッチを使っていた。

---------

昨年久々に中古の ThinkPad "X220"を購入すると、
いつの間には、いわゆるワイド画面の採用で、
筐体の幅は以前よりも広がり、
キーボードのピッチは、19mmになっていた。

その前に購入した、
Dell の中古ワークステーションから、
遅ればせながら、
私のPCも、64ビットOSになった。

少なくとも、Windows Vista からは、
最小必要RAMの量は、
さほど変化していないような感じで、
今では、2000年代最初の10年よりは、
中古でも、新しいOSが楽に使えるようになったと思う。

ウィンドウズが無償で提供される時代というのは、
ある程度の年月PCを「趣味」としてきた者には、
相変わらずの購買者/消費者のままでありつつも、
なにかしら、感慨のようなものを感じる。

もちろん、他の環境も徐々に変化して、
今では、ネットといえば、
より小さな端末が当たり前で、
あえてPCというのは、むしろ、古くくさくもあるだろう、と思う。

-------------

さて、上記の中古のワークステーションなのだが、
OSには、Windows Home Server 2011 という
少しだけ珍しいものが入っている。

前世紀以降、数多くのクライアント・サーバ型の
ネットワークのOS市場を獲得してきた
マイクロソフトには、
数年前まで「SOHOのためのホームサーバー」という
概念があった。

ただ、この概念は、現実的にはほとんど利点がなかった。

つまり、端末を使用するユーザーの数が
少なければ少ないほど、
ネットワークというのは、あまり意味をなさなくなる。

で、これは、自宅で自分がプライベートで使うものと、
職場で業務用のものを比較する機会があれば、
誰でも簡単に分かることだった。

マイクロソフトの発想は、
PC等に関するほかの多くの発想同様に、
大勢の人間が関わるネットワークの概念の、
パーソナル・ユースへの丸コピーのようなものかもしれない。

業務で、ファイルを共有するように、
自宅で、遊びで、映画や音楽のファイルも共有する、
というような発想なのかもしれない。

けれども、これは、少なくとも個人所有で
ネットに関わる端末の流れと逆だった。

スマホやタブレットの類は、
持ち運びのできるひとつの端末に
できるだけ多くのサービスを取り込むような発想だからだ。

当然のように、
ホーム・サーバーの発想は
"Windows Home Server 2011" で最後になった。
ちなみに、
おおむね Windows Vista あたりがベースのこのOS、
流行の "Windows 10" への無償アップデートの
対象外である。(^^;)

----------

家族で、インターネット接続のためのルータは共有しているので、
それぞれが自分のPCを複数台つなげる設定をすると、
それぞれの「ワークグループ名」が表示される。
自動的にピア・ツー・ピアのネットワークが組まれていることなる。
ところが、そんなものを使ってやりとりすることもないし、
お互いに必要なファイルを交換するときには、
USBのフラッシュドライブを使う。

結局、プライベートのPCで扱うようなものは、
業務上の作業のように、
有形・無形の「共有」というものが多々あるわけでもなんでもない。

言うまでも無く、ネットワークとは、
共同作業の必然から来る概念であり、システムである。

たまたま好きで何台もPCを持っているが、
業務で効率的に作業をしようと思うなら、
端末等の台数なんて少なければ少ないほど良いと
考えるのが普通だろう。

たしかに、職場での業務の場合は、
業種の関係で
クライアント・サーバ型の複数のネットワークの端末が
ひとつの机に入ってくる場合もあるかもしれい。
けれども、それは、仕事の道具だから、
自らの勝手でひとつにしてしまうわけにも行かない。

-----------

少なくとも
PCに関わることや、
その効果や恩恵というのは、
業務自体がPCのデータとして扱うことがほとんど
とうような業種を条件にしているようだ。

けれども、
すべての人がおおかたの時間を端末の置かれた机に向かって
働くような業種は、実は、限られている。

たとえば、ネットワークのグループウェアという発想があるが、
基本的に、
みんながPCに向かって仕事をしているような業種でなければ、
報告・連絡・相談ごとや予定のアレンジを
電子化しても、その効率化によって
必ずしも経費節減になるとは限らない。

むしろ、営業等外で仕事をするものに、
持ち運びのできる端末を持たせた方が効果があるといえるだろう。

もう20年以上前から、
たとえば、個人経営の事業であれば、
財務や販売の管理を電子化すれば、
あとは、さほどPCだの、そのネットワークだのの
恩恵は受けにくいものだった。
ネットワークといえば、
たまたま業界がらみの端末があれば
入っているというようなことで、
従業員の数限られているのに、
必要以上にPCを購入してみても、
それは過剰投資ということになるだろう。
ホームページを更新するのにPCが必要と言ってみても、
ホームページの作成を受託する事業所でもなければ、
本業の比率はもっと別の部分にあることだろう。

今となれば、逆に珍しいことだろうが、
今でも、PC98シリーズの中古は人気があるらしい。
つまり、20年ほど前に
PC98シリーズのPCの組み込まれたような
機械やシステムがまだ稼働している事業所があるのだという。

このことは、
ハードウェアやソフトウェアの進歩さえ、
必要最低限のレベルを満たしていれば、
十分に業務で使用できることの証拠かもしれない。

よほど特殊な業務でないかぎり、
すでに、PCの性能は、必要十分のレベルを超えているし、
たとえば、より高性能のPCを必要とする用途というと、
たとえば、
ゲーム・ソフトを動かすというような
いわば遊びの分野(もちろん、それが仕事の人もいるだろう。)
のことを思いつく。

実態をしっかり観察したり、
真面目にPCと関われば関わるほど、
要するに販売のレベルでPCについて言われていることは、
少し現実離れしたような
広告や宣伝の材料であるような可能性が見えてくる。

-----------

Windows 95 が登場したころ、
たしかに、PC好きとしては、
ピア・ツー・ピアのネットワークを組むということは興味深かったが、
結局、当時のフロッピー(1M)の容量を超えるファイルを
コピーするくらいしか、個人使用では恩恵がなかったのを思い出す。

PCを売る側の宣伝文句のように
最新のPCを購入して、最新の人間になれるわけでもなければ、
ソフトウェアをアップデートしたから
自分もアップデートされるわけでもなんでもない。

前世紀にはあれだけうようよしていたような
いわゆる素人ユーザーの「PC奉行」たちも、
今では、さすがに、PC幻想に退屈してしまったかのようだ。

職業的な業務でもないのに、
撮影した動画を
切ったり貼ったり、BGMを挿入して、
DVDに焼いてばらまくような
くだらないことに
わざわざ高価な機械を購入することの
アホらしさには、多くの人たちが気づいてる。

前世紀のように、
老人がPCに使われて、
カラープリンタから
年賀状が出力されたところで、
もう、誰も驚きはしない。

人生の途中でPCに出会って驚いた世代よりも、
生まれつきPCが身の回りにある世代の方が
どんどん増えている時代だ。

同じように、
私は、自家用車やカラーTVの所有が憧れだった
世代の人々のことを思い出す。

いずれにせよ、
使った道具のことの方に重きが置かれる様子は、
時間の経過とともにこっけいになって行く。

「PCで、PCで」と言いふらしているような
(私のような)
アホウなPC奉行や、
それに輪をかけてアホウなお弟子さんのような人は、
もう存在しえない時代になったのだろう。

今では、わずかに、HDDやメモリ等、
ユーザーが交換できるように作られている部品を
いじったユーザーが
わざわざネットで
写真付きで言いふらしているくらいか。(^^;)

ずっと以前から、
おおかた
素人のユーザーでも
簡単に部品交換したり、
部品を寄せ集めて組み立てられるように
PCという玩具は作られているのだと思う。

古くからあるような
実際に単純な道具を用いて、
自身のそのセンスや才能で何かを作る技能に比べたとき、
PCのアプリケーションに人間が使われた結果
「創造」したつもりになっている様子は、
ほんとにこっけいだと思う。

もちろん、そのレベルの人たちに、
そのことは言わない方が良いとは思う。

自覚している自らの中身のなさを
再び痛感し、
そのあせりや怒りを転換して
過剰反応して、
逆に正直な感想を述べた人が
批判される恐れがあるからだ。

けれども、結局、
才能やセンスや想像力のない人が
道具だけを手にしても、
たいしたものはなにもできないのだと思う。

そして、このことは、
今でも、ごく少数の人たちには、
自覚されていないと思う。

より若い世代の真似をして
PC等に使われているような老人よりも、
たとえば、おいしい米や、
おいしいトマトを作れるような老人を
尊敬すべきなのだと思う。

あるいは、おおむねPCがやっていることを
自分の手柄にしてしまうなんて、
何よりも他人に対して大嘘付きだし、
PCに対してさえ失礼ではないか。(爆笑)

-----------------







Not Always2016-06-26


別に何もない。

話題や興味のある分野が
特定できるなら、
それなりの検索で
それなりの場所に行き着くことだろう。

時代も世代も
そういうのは、もう、通り過ぎてしまったように感じる。

私たちは、
PCやネットの空間に関わる新鮮さのようなものを
何年かかかって消費したように思う。

生まれつきこういうものが存在する世代が、
たとえば、
どんどん社会に出て行くような時代になった。

人生途中で出会った世代のように
「○○とは何ぞや?」みたいな講釈も
どんどん意味が薄れて行くかもしれない。

私たちの世代では、
一世代前に登場したTVが
ちょうどそんな感じだった。

子供のころ、
やたらTV云々の話題等が
多かったように思う。

夢中になっていることを自慢する人や
反対に、ほとんど観ないことを手柄にするような意見があった。
私たち子供世代の
頭脳や目に対する様々な悪影響も云々されていたかのようだ。

------------

純粋な中身そのものではなくて、
容器そのものがどーのこーの言われることは、
ある意味、こっけいかもしれない。

たとえば書物という器に関わることを、
読書という特別の趣味や習慣のように言いたがる人は多い。
あるいは、絵本やマンガという器にこそ
価値や意義を見出したい人たちも多い。
いずれも、中身ではなくて、
その器の話をしているかのように聞こえる。

個人的な好きが過激になって、
やがては、
「世間への推奨」のようになる人がたくさんいる。
様々のくだらない「器論」を聞かされて退屈している人たちは、
美辞麗句や無責任な理想に満ちた
その話の内容よりも、
ただ、そんな器にこだわりすぎても、
そんなこだわりを披露する程度の人間にしかなれないのだ、
と直感で悟る。

読書が人生を豊かにする、
絵本が感性を育てる、どーのこーの
結局、読書も絵本も
そんなつまらない話をする人を作るだけなのか、
とさえ思ってしまう。

けれど、それは、ごく一般的な人間の傾向かもしれない。
たとえば、アル中の人たちが、
宴席に意義や価値を見出すようなことを自己主張する。
けれども、結局、一番確実なのは、
アル中の人たちが、自己正当化するような効能ではなくて、
アルコールは、
豊かな人間関係や心からの交流よりも、
アル中患者を確実に作るということだろう。

酒を飲み過ぎて、
あたかも酒が不可欠であるようにいう人たちは、
何かしら良きもののために不可欠であるかのように言うが、
ほんとに酒が不可欠なのは、
アルコール中毒のその人たちの身体や精神だろうと思う。
そういう意味では、
人は他人へのおしゃべりのなか、
ほとんど大嘘付きでさえある。

他人同士の関わりが増えるようなことよりも、
アル中の連中との関わりが減少することの方に
ありがたく、価値や意義を見出す人たちだっているかもしれない。

アル中の人間同士が、
うっとうしい酒の酌み交わしをして、
あたかも、それが、伝統のある礼儀だの、
意味のある儀式だとの思い、
酒を礼賛する様子を見ながら、
あんなふうにはなりたくない、と願う人だってあると思う。

アル中丸出しの一升瓶の空き瓶の氾濫が、
量販店でまとめ買いの缶ビールの空き缶に変わっただけで、
今も昔も、
毎晩酒を必要とするようなアル中の人たちの根本が
変わったわけでもないだろう。

アルコールの摂取は、
違法の薬物中毒とは違い、
ときには、どーのこーの大義名分で
他人も巻き込めるが、
その情けない中毒具体は、
たいして差がないのだと思う。

かつて、野蛮な農村を中心に存在してたような
日本独自のアルコール文化のようなものも
だんだん規模は縮小しているのではないか?

それとも、量販店で、
何本もの缶ビールを買い込むようなことが増えるのは、
それだけ、アル中の人たちの数が増えたということだろうか。

酒とタバコとどちらが悪徳かという議論があって、
たいていは、
酒の方に軍配が上がる。

けれども、私は、タバコよりも、
あの酒にまつわる風習のようなものの方が邪悪だと思う。

酒飲みは、
たいてい、
アルコール摂取と
親睦のようなことをすり替えてしまう。

だから、多くの人たちが、
毎晩酒を摂取するのに、
自分はアル中ではないと、
無意識に錯覚しているかのようだ。
アル中の人間がみんな廃人になるわけではないが、
嫌煙権が市民権を得ているように
酒に関わるださくて、くだらない風習
(たとえば、なんらかのグループは、
アル中患者を中心に
パーティとか宴会と称しては、
酒の摂取の機会を持つのが普通だ、というような...)
のことを嫌いだと主張できる権利、
それから解放される権利だって
認められたらいいのに思う。

「晩酌」など表現すると、
あたかも、ほのぼのとした夕刻のイメージがあるが、
要するに、
アル中の人たちの毎晩のアルコール摂取のことを
いうのではないか、と思う。

--------------


【パソコン通信】2016-06-26


何度か書くが、
【パソコン通信】という表現自体ひどく古くさい。

【パソコン通信】は、
1985年に
誰でもモデム越しにPCを電話回線に繋げるようになったときに発生した
と言える【ネット空間】の一番初期のスタイルだ。

そして、その10年後の1995年が、
たいていの人が思う
いわゆる「インターネット元年」当たる。

もう少しこじつけると、
その10年後は、
ある意味、
<マイクロソフトのOSが
PCのプラットフォームという役目を
【ネット空間】に奪われたことが明らかになった年>

21世紀になると、
PCの最低基準は、
前世紀のように
<マイクロソフトの最新のOSが動くこと>ではなく、
<ネットに接続されていること>へと
変化して行った。

Windows Xp の登場後5-6年すると、
相対的に
ハードウェアの性能の平均も十分に上がり、
性能を落とした分割安になったタイプの
「ネットPC」とよばれるジャンルが登場した。

ところが、そのころ、
前世紀並に、
前作より重くなった厚化粧路線の新OSが登場。
GUI上で
それぞれのウィンドウをカードのように
ぺらぺらめくって行く機能の画像が、
やたら使われていた。

この  Windows Vista (NT 6.0) は、
おおかた512MのRAMで普通に動いてた
<Windows Xp PC> の性能の平均値に対して,
約2GのRAMが必要とされた。

そのために、
やたら「重い、遅い」という印象のOSになった。

「PCは、一年経てばただの箱」と言われたような
前世紀とは異なって、
少し古かったり、少し性能の落ちるPCでも十分使えるという
傾向が出てきたころに、
そのため中古市場も拡大してきたころに、
それに逆らうかのような、
Windows Vista は、
一言で言えば、発想が古くさかった。

つまり、
Windows Vista には、
更新するに値するような
誰でも分かる新機能のようなものがなかった。
そのくせに、
それまでの「より新しいもの」同様に
ハードウェアの
「より高い性能」だけは要求したのだ。

Windows Vista が必要とするハードウェアの性能は、
実際には、Windows 7 (NT 6.1) が必要とするものと
似たようなものだったが、
発売年がずれた分、
ハードウェアの性能の平均も上がり、
Windows 7 は、「より速いOS」として、
おおむね歓迎された。

ところが、きっと、初歩的な錯覚なのだろうが、
GUIをどんどんいじくって新しくすれば
すべてのユーザーにとって魅力的とでもいうように、
またまた次の Windows 8 (NT 6.2) がリリースされ、
たいへん不評で、
即、「やり直し」に当たる Windows 8.1 の発売になった。

そして、ここに至り、
ついに、すでに、<新しいウィンドウズ>なんぞ、
それだけでは多くのユーザーには何の魅力もない、
という、誰でも知っていることが明らかになり、
次の新OSを売るためには、
新OSの利点をでっち上げることよりも、
旧OSを悪く言うしか方法がないことも
明らかになった。

つまり、そこに、
「古いOSは、セキュリティーの面で
危険ですから、より新しいものにしましょう!」という広告が生まれたり、
いよいよ末期と思われる「無料配布」にまで至ってしまった。

ところが、今度は、
業務用に使っているわけでもなく、
OSが更新されても
たいした影響のないようなことしかしていないユーザーを中心に
必要以上の被害意識に陥り、
「OSが勝手に更新された!」と言いふらすことが流行始めた。

何度も書くけれど、
PCについては、
とにかく、その価値観までが丸コピーされがちだと思う。

金を出している購買者である以上、
決して作り手側から悪く言われることはないが、
多くの人間が
仕事で使うわけでもないPCで、
たいしたことをしているとは思えない。

あるいは、そういう個人が作成したデータなんぞ、
アプリケーションの機能に都合良く使われれば
阿呆でもできるようなことがほとんどだから、
他人には何の価値もない。
価値があるのは、
交尾のハメ撮りの写真や動画くらいのものだろう。

個人が玩具として使うPCの
いわゆるセキュリティーとのからみは、
それなりの機関のPCにあるそれなりのデータに
ついてではなくて、
「流出」云々といえば、
その類のものでしかあり得ない。

あるいは、特に21世紀になってからは、
ネットの方がプラットフォームだから、
OSが更新されようが、
そんなことは、ほんとはどうでもいいことだろうが、
やたら自分のやっていることには
価値や意義を置きたいタイプの
うだつの上がらないような人に限って、
ことPCがらみのことについては、
どこかから丸コピーの内容を
大げさに言いたがるようだ。

今晩作ったおかずだの、
HDDの交換やメモリの増設の
写真をアップするくらいしか使い道のない、
個人所有のPCがそれほどたいしたものだろうかと思う。

動画を切ったり貼ったり、
BGMを挿入してDVDに焼いてはばらまくような遊びだって
そのうち飽きてくるだろうが、と思う。

------------

今世紀には、ほとんど消滅してしまったが、
前世紀には、どこにでも、「パソコン奉行」のような連中があって、
もちろん、開発者でもなければ、
それに関わる仕事をしているわけでもない
ただの消費者のくせに、
なかには、
登校拒否の児童・生徒、
学業にも、運動にも、アルバイトにも勤しむことのない学生・浪人生、
出社拒否のサラリーマン、
開店休業の店主・失業者、
労働・子育て免除の有閑マダムたちのような分際で、
PCの雑誌等に掲載されている内容について丸コピーしては、
自分よりPCに詳しくないユーザーを見つけて
「指導者ごっこ」「コーディネータごっこ」をするのが
流行っていた。

こういう連中は、
Windows 95 が出たころには、
仕事に使うわけでもないのに、
何台もPCを所有して
たいしてすることもないのに
LANを組んで、
来客に見せびらかして喜んでいた。

けれども、多くの人が影響されて、
PCを買うことになったが、
結局カラープリンタを一緒にか購入して、
カラー印刷の年賀状作りをして
人に見せびらかすくらいしかすることがなかった。

PCやそれに関わるネットは、
前世紀の後半に
いわゆる知的な職業に属する人たちの
道具から普及してきた経緯があるので、
PCを買えば、アホでも、
なにかしら知的なイメージも一緒に
購入することができたのかもしれない。

時代も移り変わり、
今では、私のように、あえて「PCが趣味」などと
自己申告すると、
ちょうど、ゲートボールや盆栽いじりのように
古くさい感じがないでもない。

あるいは、今では、
【ネット空間】遊びは、
ノートPCよりももっと小型の端末が当たり前になったので、
あえて、PCにするところが、
やはり、妙に古くさいということにもなる。

世の中に新しい技術の商品が普及すると、
消費者/購買者として
それを所有して、それに関わることだけで、
確かにひとつの趣味として確立するような時期があると思う。

PCや自動車にもそういう時期があった。

そして、少しでも早く手に入れた人から順番で、
ど素人のままで、
ちょっとした専門家でいることもできたのかもしれない。

あるいは、
それこそが、豊かな時代独特の「物欲」とうことかもしれない。

購入した新しい物品の自慢しか
することのないような人たちは多い。

大画面のディスプレイと
5.1 Channel のアンプとスピーカ・システムの
いわゆる「ホーム・シアタ」とやらが、
そういう自慢の種になり得たような時期もあるが、
今では、むしろ、
小型端末で映画を見るような機能の方が
「売り」であるかのようだ。

その商品自体が好きな人がある一方、
自慢の種にでも使えば、
新規購入なんでも大好きみたいな人もいる。

ところが、前記のホーム・シアタのシステムの
購入を自慢するような人たちに限って、
5.1 Channel Mix のことなんて説明できなかったり、
おおかたは、
登校拒否の児童・生徒、
学業にも、運動にも、アルバイトにも勤しむことのない学生・浪人生、
出社拒否のサラリーマン、
開店休業の店主・失業者、
労働・子育て免除の有閑マダムたちのような連中が、
家族の誰かの収入で買ったものについて、
自分の家のものとして自慢しているような場合だってある。

そして、そういう連中は、
たいてい訪ねたわけでもないのに、
自己申告と自己顕示で言いふらす。

自らの生き方や暮らしのなかで
こつことと勤勉に積み重ねたような
努力も実績もなく、
自分となんらかの関わりのあることを
自慢するくらいでしか、
自己肯定の方法がないような人たちがいる。
実労働なしに、
他人が勤勉の果てに手にした
手柄にはちゃっかり便乗するような心がけは、
他人に対して犯罪でも迷惑でもないが、
結局、意地汚く、厚かましく、欲深く、こっけいで、ださい、
と思う。

「僕のパパは、社長さん」と自慢しているような
幼児や就学直後の児童と
たいして変わることはない。

いいえ、むしろ、
雨の日も風の日も
こつこつ幼稚園や小学校に通っているだけ、
怠惰と自慢に満ちた大人たちよりましとも言える。

----------------


Note PC2016-06-26


PC が、ささやかな趣味である。

もちろん、専門家ではなくて、
ただの購買者/消費者だ。

非生産的で、
活動的ではない趣味の典型だろう。

この世の中には、
もっと、たとえば、社交や親睦の機会を
増やしてくれるような趣味がたくさんあることは知っている。

おもしろくもなく、つまらない人間である。
仮に私が他人様であれば、
関わりになんぞなりたくないような、
興味も関心もわかない類の人間だろう。

うだつの上がらない、
あるいはあがった試しもない
中年から初老に至る世代の男性。

けれども、それだけで、
別に積極的に人生とおさらばする理由もない。

人生のささやかな経験の多くは、
まるで、崩すための
積み木の積み重ねのようだ。

これは、痛感する。

崩れるために、
年月を消費しているかのようことは多い。

餌で釣られては、
やがては不愉快の結末が
こっそり待っているかのようだ。

大恥をかきつづけているようにも思う。

以前は、酒を飲んでそれをごまかしていた。
意識や認識や思考や感性を
押さえつければ、
少しはましだったからだ。

落とし物やなくしものは仕方ないと思っていた。

できれば、不機嫌だけは勘弁願いたいとも思っていた。

ささやかな不機嫌も、不愉快も、
まるで忘れたころに、
総特集でもあるかのごとく発生するかのようだ。

---------------

積極的に、いわゆる悲観主義者なんぞを
目指しているつもりはないのだが、
就寝する際の、
あの夢と現の状態、
つまりは、人生最後ではないが、
毎晩の「三途の川」を渡ること、
そういうことを思い出す。

できるだけ狭い場所が好きなのかもしれない。

いつも、
一冊の良書のなかに逃げ込みたいとも思っている。

同窓会も、
久しぶりの飲み会も、
そんなものは、なくなってしまえばいいとさえ思っている。
断るのがめんどくさいし、
あると思うだけで、
うっとうしい気もするからだ。

-----------

人間や人付き合いよりも、
一台のPCなんぞの方が、
よほど私を幸福にしてくれるような気がする。

人間は、奇跡的な例外以外、
たいていは、私を苛立たせ、
私を不愉快、不機嫌にしてしまうからだ。

関わっていた人々を思い出し、
今では、もう、関わったときの理由のようなことも
思い出せない。

それぞれが、ごく一部の人たちの便宜と都合を満たすだけの、
なんだか、
こちらには、たいして意味も価値もないことだったような気がする。

私は、不遜から言っているのではない。

けれども、不愉快なこと不機嫌なことに、
もしも感謝しなければいけないということになれば、
そこには、
なにがしかのきちがいじみたシステムや
一部の他人様たちの
激しい利己主義が関わっているのだと信じている。

頭と体は売り飛ばし、
魂はしっかり守る。

けれども、多くの人間に、
そんな区別があるのかないのかも
もう分からない。

損得勘定!

どこが悪いだろう?

ただ、生まれきて良かったというような、
幸福・心の平安が
基本的な目的で、
それに応じて、
選択できることは選択する。

あるいは、
恩恵と手柄をすり替えない。

--------



支え 22016-06-26


人間( human being ) を、
あえて悪いものとして扱うことも
真理への正しい理解にはならないだろうが、
逆に、その人間というものに、
何かしら不釣り合いな神聖さを
求めてしまうのも、同様に危険なことかもしれない。

人間関係に関わる多くの理想は、
それが行き過ぎてしまうと、
しばしば、
人間一般の資質以上のものを
他人に求めるようなことにもなってしまう。

わかりやすさを求めて、
似たような条件が考えられる複数の人間を比較することも、
ある意味、
あまりにも都合・便宜に偏っていて、
<ほんとうのこと>の理解には
つながりにくいように思う。

聖書で言及される偶像崇拝は、
文字通り、
なんらかの物質に
神の存在を求めるようなことだおろうが、
社会のなかで実際に起こっている
偶像崇拝の対象は、たいていは、他人という人間だったりす。

人間は、おおむね、
他人様に完璧を求めつつ、
同時に他人様が完璧でないことに文句を言うかのようだ。
けれども、
それは、最初から、完璧、
あるいは、自らに都合の良いものを
他人様に求めるという、
致命的な過ちの結果であることがほとんどだ。

--------------

もちろん、<人生=社会>というような人もあるかもしれないが、
社会とは、ある意味、肌寒い。

ときどき、それぞれの業界、
あるいは、それぞれの会社、
それぞれが、特殊な新興宗教のようなものに思えることがある。

人々は、それぞれの場所で、
都合良く洗脳され、
しかも、その洗脳の進行のことを
成長だと思うように、これまた洗脳させているかのようだ。

いわゆる独裁者の存在するような
外国のことを批判してみるけれど、
ある種の業界や会社を構成する人たちが、
なにかしら、盲目の信者のように見えることがある。

世間でしばしば悪用されるような
「社会のための個人は、やがて、個人のために社会に結びつく。」
というような仮説も、これまた、ごく一部の個人たちの
都合や便宜の果てであるような気がすることがある。

もちろん、それが、大企業や政治家のことだと、
浅はかな批判を持ち出すつもりはない。

それどこころ、それぞれの段階で、
それぞれの人の利己が
グループや全体にすり替えられている場合が
たくさんあるような気がする。

<地獄の沙汰も金次第>というような
考えだけでは極端だが、
<あることに関して、誰が一番金銭的に得をしているか>というような
尺度があるが、
<あること>(ある任意の事業、業界、企業等)の
全体像を把握するにあたって、
その尺度は、世間で一般に思われているほどは
非人間的で空しいものでもない、
と思うことがある。

あるいは、何の表現もなければ、
穏やかに流れている流れのなか、
気をつけて観察すると、
あえて表現されるような自己申告による
美辞麗句の類が、
むしろ、そのことの、さほど美しくもない自体を
披露してしまうようなことだってあるだろうと思う。

もしろん、そんなふうに、
どこでもたいてい、
批判マニアの話のネタが氾濫している。
けれども、批判マニアの批判さえも、
<全体の利益>という仮説にちなんだものではなくて、
自分への注目や興味や関心のための
手段だったりするのは、
これまた、こっけいだ。

いつでも、どんな場合でも
<戦場に赴く人>と
<戦場を批判する人>があるのだろうと思う

そして、
<実体験>依存も、<理屈>依存も、
もしも、それが自己顕示や自己主張の手段であれば、
とたんに、なんだかカッコの悪いものになるように思う。

---------------

それ自体に価値のあるような
お話のプロでもなければ、
人様に話を聞いていただくということは、
人様に負担をかけることであり、
人様に借りができることなのだ、
ということを、私は、いつも痛感する。

もちろん、それは、
自称「社交好き」や「親睦好き」の人たちとは、
ずいぶん異なった心がけなのかもしれないが、
私、ただ、そう感じるし、
それを基本に暮らしているつもりだ。

だから、誰かを捕まえて話を聞かせるくらいなら、
ネット空間で、こんなふうに、
落書きする方法の方が、
他人様一般に対する加害は
より少ないとも思っている。

ネット越しに
【見ず知らずのアカの他人さんたち】のなかから
見いだせるような関わりは、
ある種の人々が思い込んでいるほど、
あるいは、
SNSやブログを主催する会社が
広告収入のために礼賛するほど
素晴らしいものではないと、私は思う。

-----------------

人間関係に関して、
損得勘定や
<利用>というような概念を当てはめることは、
しばしば<無粋なもの>であり、
<情を欠いたもの>であり、
どちらかといえば<悪徳>にされる場合が多いと思う。

けれども、それこそ、
なんらかの理由や都合による
<言葉のアヤ>というものだろう。

例えば、
義務教育の学校では、
「どんな他人との関わりにおいても、
常に損得勘定を忘れず、
また、利用したりされたりする可能性について
思いをめぐらせましょう。」
というようなぐ技術が言及されることはなく、
その代わりに、
とんでもない矛盾をはらんだような
安物の平等主義のセリフの表現等が
推奨されているかのようだ。

貧乏な家と金持ちの家が
同じふりをするような態度ではなにも解決しないことだろう。
そして、その幻想のような平等は、
たいていは、優劣のなかの
優に属する人たちの方から発信される。
都合や便宜の維持と、
理想みたいなものがすり替えられていたりもする。

けれども、
それぞれの道というのは、
むしろ、他人との差の認識から始まるように思う。

性差、所得の差、地域の差...
違いがあるのが当たり前のなか、
なんらかの都合で平等を押しつけ
存在するものを否定することは、
ちょうど、四季の移り変わりを認識しないかのように
無粋でこっけいな態度だろうと思う。

--------
Q

支え2016-06-26


表現が、人間の外部の事実や
内部の思考や感性を支えることがる。

否、むしろ、表現されないものは存在しない、
というような印象さえある。

自己申告の表現を基盤にする
<ネットの個人発信空間>は、
上記のような理屈や法則をより鮮明にしたと思う。

ネット空間の個人のそれぞれの場所において、
自己申告の表現の数々は、
いわば「大人版の【せんせー、あのね!】」のようなものだ。

けれど、聴き手(または、そういう存在の仮設)により
処理される何かがあるとすれば、
現実の世界で、
他人のアテンションを奪うよりも、
ネットの空間に放り出す方が
いわば<より多くの人間の利益>に合うことだろう。

お互いが、あるいは特定の人が、
無料のカウンセラーの役を
引き受け合うことについて、
例えば、しばしば、それは「和」であるとか「絆」の
名札をぶら下げられて、
おおむね、それこそ、<より多くの人間の利益>の
ように扱われてきた。

社会的階層や利害関係のなかでは、
当然どちかが聴き手を役を引き受け、
そして、ささいなおしゃべりに対してさえ
興味や関心をくれてやるのが
無言のルールになっているような場合がある。

部下が上司に対して
そういう態度を求められること、
あるいは、売り手は顧客に対して
そういう態度を求められること、
社会の暗黙のルールのように作用しているし、
そのルールに反発すれば、
おおかたは、なにかしらのトラブルの源になりがちだ。

どんな集団でも、
話し手が溢れているが、
聴き手はどちらかと言えば不足気味だと思って
先ず間違いない。

物質や衣食住が満たされて、
多くの有形・無形のものの希少価値を無くして行くのとは
対照的に、
「聴き手」「聴く耳」の価値は相対的に上がって行く。

物質や衣食住にかかわるものが
今よりも不足しがちだった時代、
乞食とは、人通りの多い現実的な空間で、
【見ず知らずのアカの他人さんたち】対象に
物乞いをして金や品物を求めることだったが、
物質や衣食住が満ち足りた時代になると、
精神的な飢えの方が問題になって、
物質と衣食住は満ちていても
乞食は、人通りの多いネットの空間で、
【見ず知らずのアカの他人さんたち】対象に
物乞いをして、
<興味>や<関心>や<聴く耳>を求めているかのようだ。

--------------
Qoheleth 2016